邪馬台国の位置  Tweet

 邪馬台国の位置については、畿内説と九州説が対立してきました。
『新日本書紀』は「魏志倭人伝」の解釈等を行い、
邪馬臺国が大和国に在ったことを明らかにしています。
 以前は、邪馬台国は畿内にあるが、
魏の使節が南方にあると思い込み、
誤って<東>を「南」と書いたという立場を取っていました。
しかし、魏の使節が実際に倭国まで行きながら
方角を間違えるはずが無いという批判を受け入れます。
よって、魏の使節は、邪馬台国が畿内にあることを知りながら、
故意に南方にあると報告したという説に改めます。
 そして、古田武彦氏の右の主張1から8を認めます。
 主張1から8を前提として古田氏は邪馬壹国が筑紫にあったとします。
しかし、主張1から8を前提としても、
私は邪馬臺国が大和国にあったと考えます。
古田説すべてに同意するなら、
結論も同じく邪馬壹国が九州にあったということになるでしょう。
しかし、私は、以上の前提から導かれる古田氏の主張及び
他の点に関する古田氏の主張に同意出来ないものがあります。
そのため、邪馬臺国が大和国にあったと主張します。

 主張1の「邪馬壹国」についてですが、
古田氏は「邪馬壹国」のみが正しいとします。
しかし、壹も臺も正しい場合があります。
そのようなケースとして、臺から壹に改名した場合が考えられます。

 次に主張5の方角についてですが、
古田氏は東を南に改定することはできないと言います。
しかし、陳寿は倭国が帯方郡の東南にあるという正しい地理を
認識していながら、
東を南と記述する場合があります。
故意に東を南と記述した場合です。
そのようなケースとして、魏の使節は正しい地理を認識していたが、
政治的に東を南だと主張する報告書を中央官庁に提出し、
中央官庁の記録官はそのまま記録・保管した。
それを見た陳寿は、正しい地理を認識していたが、
魏使節の主張に歴史的価値を認めるとともに、
その主張が晋の宗室にとっても有利なので、
その主張に基づいて、
その主張のままに「魏志倭人伝」を記述した場合です。
そのような場合は南を東と改定できます。

 主張7の里程基準についてですが、
三国志の他とは異なる里程基準を説明するために、
古田氏は短里というものがあったとします。
しかし、三国志が他とは異なる里程基準を用いていた理由を説明する
他の方法があります。
三国志の時代、外夷は強大な魏国に対抗するために、
自国の大きさを誇張して報告することが多かったのです。
そのため、外夷の報告を基にして記述すると、
実際の数倍の誇大な里数になりました。
この誇大な里数に合わせるために、他の里数も数倍して記述しました。
よって、私は、「魏志倭人伝」がいわゆる長里で書かれていると考えます。

 古田氏は魏の使節が帯方郡から倭国の首都にまで行ったとしますが
同意出来ません。
 古田氏は、一部放射式を取り入れ、
「帯方郡治──邪馬壹国」の主線行程に対し、
すべての行程が連続式なのではなく、
それぞれ伊都国、不弥国を分岐点として、傍線行程があったとします。
これにも同意できません。
私は連続式が良いと考えます。
 更に、古田氏は「地名比定」という方法の危険性を説きますが
同意出来ません。
私は地名比定の方法を用います。

 以上、古田説に対する私の立場を要約すると、
 邪馬臺国から邪馬壹国への国名変更が行われた。
「会稽東治」「景初二年」「対海国」「一大国」が正しい。
「魏志倭人伝」に書かれている方角は故意に歪められたところがある。
「魏志倭人伝」は長里で書かれている。
 魏の使節は伊都国までしか行っていない。
「魏志倭人伝」は連続式で読むのが良い。
 壹は卑字ではないということです。

 以上を前提とした上で、方向改定だけは無しで、
「魏志倭人伝」の行程を見ると、
右図のようになります。
方向改定無しとするのは、
「魏志倭人伝」そのものの主張を明らかにするためです。
「魏志倭人伝」は邪馬壹国が「南の遠方」かつ
「呉国の東方」にあることを主張していることが確認できます。

魏志倭人伝」は邪馬壹国が畿内に在るとも
 九州に在るとも主張していません。

 しかし、正しい地図を見れば、
「魏志倭人伝」の主張する呉国の東方に倭国は在りません。
「魏志倭人伝」は虚偽を主張しています。
私は、「魏志倭人伝」の基となった報告書を提出した魏の使節は、
政治的動機からそのような虚偽を含ませたと考えます。
但し、真実の情報も多く含まれていなければ、
単なる虚偽文書になってしまいます。
よって、虚偽とするのは、政治的に
「倭国が南の遠方にあり、
倭国が呉国の東の近いところにあり呉地に出兵できる」
という主張をするのに必要な部分に留めたと考えます。
 以上に基づいて、私は「魏志倭人伝」を矛盾無く解釈できました。
 地名比定論に基づいて、国名の比定を行っています。
 私の国名比定の方法は、
遺存している「魏志倭人伝」の国名の意味に結びつけられる
七・八世紀の国名を見つける。
更に、様々な情報を総合して、
三世紀の地名から七・八世紀の地名へと変化した理由を説明できれば、
その比定が正しいとするものです。
 「魏志倭人伝」における倭国の国名を見てみますと、
その表記された漢字の意味からは、国名の意味を理解し難いのです。
よって、中国側は、倭国の国名の倭国における意味を理解して
漢字を当てたのではないと分かります。
中国側は、倭人による倭国の国名の発音を漢字で表記したのだと
考えられます。
 従って、「魏志倭人伝」における倭国の国名の意味を理解するには、
それを音読みし、
その音に相当する倭語を探ればよいことになります。
卑弥呼の時代には既に漢語も倭語として取り入れられていると
考えられるので、
倭語には漢語も含まれます。
 この方法を用いて、対海国、一大国、末廬国、伊都国、
不弥国、投馬国、邪馬壹国
を比定できました。
奴国については、邪馬台国以前の歴史から比定できました。
斯麻国以下の二十一カ国も比定できました。
 風俗の部分も、魏の使節が九州までしか行っていないことにより、
説明が付きます。
 歴史部分も、邪馬臺国から邪馬壹国への改名及び魏が倭国に対して
呉国への出兵を求めたことにより、説明がつきました。
 以上、簡略に邪馬台国=大和国説について説明しました。
 詳しくは『新日本書紀』分巻1-1「倭の邪馬台国」の
第一部第2章「邪馬台国の位置」を御覧下さい。
地名比定の有効性が分かります。 
古田説主張1
 『三国志』「魏志倭人伝」には邪馬臺国という国名は存在していない。
女王卑弥呼のいた国が「邪馬臺国」だ、とは一切書いておらず、
邪馬壹国と書いてある。
(古田武彦『「邪馬台国」はなかった』古代史コレクション①、
ミネルヴァ書房、第一章「それは「邪馬台国」ではなかった」)

古田説主張2
 『三国志』「魏志倭人伝」には「会稽東冶」とは書いておらず、
「会稽東治」と書いてある。
当該個所を検討すると、「会稽東治」の直ぐ前が、
夏后少康の子が会稽に封じられ、
その夏の感化が倭人に及んでおり、それが風習化して、
今も倭人の中に伝えられているのであろうと推定している部分だと理解できる。
 また、会稽東治を東冶に改めたのは、後漢書を書いた范曄である。
彼は魏の時代には会稽郡の中に「東冶」という土地があったという知識から、
「魏志倭人伝」の「東治」を「東冶」に改定した。
 このように理解すると、原文どおりの「東治」が正しい。
(『「邪馬台国」はなかった』第二章Ⅰ「禹の東治」)

古田説主張3
 『三国志』「魏志倭人伝」には「景初三年」とは書いておらず、
「景初二年」と書いてある。
歴史を検討すると、「景初二年」が正しい。
(『「邪馬台国」はなかった』第二章Ⅱ「戦中の使者」)

古田説主張4
 『三国志』「魏志倭人伝」には対海国」「一大国」と書いてあるのに、
後代に「対馬国」「一支国」へと改定されている。
この後代の改定には史料批判上の根拠が無く、
「対海国」「一大国」が正しい。
(『「邪馬台国」はなかった』第二章Ⅲ「海彼の国名」)

古田説主張5
 『混一彊理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)』という地図では、
倭国が范曄(はんよう)の主張どおりに「会稽東冶」の東に描かれており、
陳寿の主張を基にしたものではない。
よって、『三国志』を書いた陳寿は倭国が会稽東冶の東、
すなわち南方にあるという誤った認識を有していなかった。
陳寿は倭国が帯方郡の東南にあるという正しい地理を認識していた。
 また、「魏志倭人伝」の「南」を「東」を意味するとみなすことはできない。
陳寿には「南」を「東」と書く癖などもないので、「南」は「東」の誤りでもない。
(『「邪馬台国」はなかった』第三章Ⅰ「目的地先行の「各個改定」」)

古田説主張6
 「陸行一月」は「陸行一日」を意味するものではない。
(『「邪馬台国」はなかった』第三章Ⅰ「目的地先行の「各個改定」」)

古田説主張7
 『三国志』内の里程基準は、すべて一定している。
それは前代(漢など)、後代(唐など) の里程基準とはいちじるしく異る。
しかし、いずれも、実測値としての基礎の上に立った、ほぼ正確な表現である。
(『「邪馬台国」はなかった』第三章Ⅱ「榎説への批判」)

古田説主張8
 魏においては貳にが嫌われているのに対して、壹は反対に二心なき忠誠心を示す。
邪馬壹国の「壹」は卑字ではない。
(『「邪馬台国」はなかった』第五章「「邪馬壹国」の意味するもの」)









 






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