邪馬台国問題正答


書籍
「倭の邪馬台国」新日本書紀Ⅰ

      高木從人著  高木從人製作動画
      

    パレードブックス

   2018年6月30日刊行
         
20日から変更

   定価 1728円(税込)



    1.目次より
    2.邪馬台国=大和国説
    3.ユダヤ征服王朝説
    4.漢字の音読みについて
書籍紹介動画「倭の邪馬台国」


 「倭の邪馬台国」は長大な学術論文に匹敵し、
 緻密な論理構成と正確な史料解釈により、
 あなたの知性に挑戦します。
 著者が半生をかけて邪馬台国問題の正答を導き出しました。
  • 中国正史と日本書紀の解釈を行い、九州に日本最初の王権が成立したことを明らかにしました。その結果、なぜ、卑弥呼が監禁されたような状態にあったのか、その理由が明らかになりました。
  • 邪馬台国(邪馬壹国に改名)=大和国説に立って、「魏志倭人伝」に正釈を与えました。
  • 正史『三国志』の解釈を踏まえて、倭国王と邪馬台国王の関係等、邪馬台国の歴史を明らかにしました。
  • ユダヤ征服王朝説に基づいて、日本語の起源、三角縁神獣鏡の問題、平原王墓の問題を解明しました。




 目次より

第一部 邪馬台国

序章 倭の登場

第一章 面上王権
  一 金印─後漢書東夷列伝
  二 倭面上王将帥
  三 欠史八代と倭国王年代記
  四 倭国大乱

第二章 邪馬台国の位置
  一 位置論と古田説
  二 古田説の検討
  三 倭人伝の主張
八重洲ブックセンター本店
パレードの編集者さんを通じて、外注の営業スタッフさんに撮影してもらった写真です。
2018年7月4日掲載
  四 魏志倭人伝国名の比定
      対海国、一大国、末廬国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国、邪馬壹国、
      東国二一国、狗奴国、侏儒国・裸国・黒歯国

第三章 卑弥呼と邪馬台国王
  一 卑弥呼の支配実態
  二 邪馬台国の成立事情
  三 古事記と邪馬台国王即位年

第四章 邪馬台国の歴史
  一 魏志倭人伝の背景
  二 卑弥呼と男王の外交
  三 卑弥呼の死と張政の報告
  四 卑弥呼以後

第五章 邪馬台国の征服
  一 邪馬台国とヤマト王権の比較
  二 騎馬民族征服王朝説
  三 ユダヤ征服王朝説
  四 日本語の起源
      五つの文化複合、大野晋氏のタミル語説
  五 ユダヤ人の歴史

第六章 征服者による歴史改変
  一 証拠の隠滅
      邪馬台国の湮滅、ユダヤ文化の湮滅、平原王墓─瓊瓊杵の墓
  二 三角縁神獣鏡の問題
      特鋳鏡、製作地と分与、伝世

終章 銅鐸の末路

倭国関連年表
参考文献
倭人傳 
邪馬台国は、古田武彦氏の指摘したとおり、国名が「邪馬壹国」の時代がありましたが、それは、改名の結果でした。
大和国を支配した邪馬台国は、三世紀初めから倭国の国々の宗主国でした。
狗奴国は九州南部の熊襲の国であり、辺境で邪馬台国に対抗した時期もありましたが、邪馬台国と対等ではありまません。
「倭の邪馬台国」は三国志等と記紀を解釈して、邪馬台国と倭国の歴史を解明しました。
正当な評価を受ければ、「倭の邪馬台国」によって、「邪馬台国」論争は確実に終結するでしょう。


邪馬台国=大和国説

 邪馬台国の位置については、畿内説と九州説が対立してきました。
『新日本書紀』は「魏志倭人伝」の解釈等を行い、
邪馬臺国が大和国に在ったことを明らかにしています。
 以前は、邪馬台国は畿内にあるが、
魏の使節が南方にあると思い込み、
誤って<東>を「南」と書いたという立場を取っていました。
しかし、魏の使節が実際に倭国まで行きながら
方角を間違えるはずが無いという批判を受け入れます。
よって、魏の使節は、邪馬台国が畿内にあることを知りながら、
故意に南方にあると報告したという説に改めます。
 そして、古田武彦氏の右の主張1から8を認めます。
 主張1から8を前提として古田氏は邪馬壹国が筑紫にあったとします。
しかし、主張1から8を前提としても、
私は邪馬臺国が大和国にあったと考えます。
古田説すべてに同意するなら、
結論も同じく邪馬壹国が九州にあったということになるでしょう。
しかし、私は、以上の前提から導かれる古田氏の主張及び
他の点に関する古田氏の主張に同意出来ないものがあります。
そのため、邪馬臺国が大和国にあったと主張します。

 主張1の「邪馬壹国」についてですが、
古田氏は「邪馬壹国」のみが正しいとします。
しかし、壹も臺も正しい場合があります。
そのようなケースとして、臺から壹に改名した場合が考えられます。

 次に主張5の方角についてですが、
古田氏は東を南に改定することはできないと言います。
しかし、陳寿は倭国が帯方郡の東南にあるという正しい地理を
認識していながら、
東を南と記述する場合があります。
故意に東を南と記述した場合です。
そのようなケースとして、魏の使節は正しい地理を認識していたが、
政治的に東を南だと主張する報告書を中央官庁に提出し、
中央官庁の記録官はそのまま記録・保管した。
それを見た陳寿は、正しい地理を認識していたが、
魏使節の主張に歴史的価値を認めるとともに、
その主張が晋の宗室にとっても有利なので、
その主張に基づいて、
その主張のままに「魏志倭人伝」を記述した場合です。
そのような場合は南を東と改定できます。

 主張7の里程基準についてですが、
三国志の他とは異なる里程基準を説明するために、
古田氏は短里というものがあったとします。
しかし、三国志が他とは異なる里程基準を用いていた理由を説明する
他の方法があります。
三国志の時代、外夷は強大な魏国に対抗するために、
自国の大きさを誇張して報告することが多かったのです。
そのため、外夷の報告を基にして記述すると、
実際の数倍の誇大な里数になりました。
この誇大な里数に合わせるために、他の里数も数倍して記述しました。
よって、私は、「魏志倭人伝」がいわゆる長里で書かれていると考えます。

 古田氏は魏の使節が帯方郡から倭国の首都にまで行ったとしますが
同意出来ません。
 古田氏は、一部放射式を取り入れ、
「帯方郡治──邪馬壹国」の主線行程に対し、
すべての行程が連続式なのではなく、
それぞれ伊都国、不弥国を分岐点として、傍線行程があったとします。
これにも同意できません。
私は連続式が良いと考えます。
 更に、古田氏は「地名比定」という方法の危険性を説きますが
同意出来ません。
私は地名比定の方法を用います。

 以上、古田説に対する私の立場を要約すると、
 邪馬臺国から邪馬壹国への国名変更が行われた。
「会稽東治」「景初二年」「対海国」「一大国」が正しい。
「魏志倭人伝」に書かれている方角は故意に歪められたところがある。
「魏志倭人伝」は長里で書かれている。
 魏の使節は伊都国までしか行っていない。
「魏志倭人伝」は連続式で読むのが良い。
 壹は卑字ではないということです。

 以上を前提とした上で、方向改定だけは無しで、
「魏志倭人伝」の行程等を読むと、
「魏志倭人伝」は邪馬壹国が「南の遠方」かつ
「呉国の東方」にあることを主張していることが確認できます。

魏志倭人伝」は邪馬壹国が畿内に在るとも
 九州に在るとも主張していません。

 しかし、正しい地図を見れば、
「魏志倭人伝」の主張する呉国の東方に倭国は在りません。
「魏志倭人伝」は虚偽を主張しています。
私は、「魏志倭人伝」の基となった報告書を提出した魏の使節は、
政治的動機からそのような虚偽を含ませたと考えます。
但し、真実の情報も多く含まれていなければ、
単なる虚偽文書になってしまいます。
よって、虚偽とするのは、政治的に
「倭国が南の遠方にあり、
倭国が呉国の東の近いところにあり呉地に出兵できる」
という主張をするのに必要な部分に留めたと考えます。
 以上に基づいて、私は「魏志倭人伝」を矛盾無く解釈できました。
 地名比定論に基づいて、国名の比定を行っています。
 私の国名比定の方法は、
遺存している「魏志倭人伝」の国名の意味に結びつけられる
七・八世紀の国名を見つける。
更に、様々な情報を総合して、
三世紀の地名から七・八世紀の地名へと変化した理由を説明できれば、
その比定が正しいとするものです。
 「魏志倭人伝」における倭国の国名を見てみますと、
その表記された漢字の意味からは、国名の意味を理解し難いのです。
よって、中国側は、倭国の国名の倭国における意味を理解して
漢字を当てたのではないと分かります。
中国側は、倭人による倭国の国名の発音を漢字で表記したのだと
考えられます。
 従って、「魏志倭人伝」における倭国の国名の意味を理解するには、
それを音読みし、
その音に相当する倭語を探ればよいことになります。
卑弥呼の時代には既に漢語も倭語として取り入れられていると
考えられるので、
倭語には漢語も含まれます。
 この方法を用いて、対海国、一大国、末廬国、伊都国、
不弥国、投馬国、邪馬壹国
を比定できました。
奴国については、邪馬台国以前の歴史から比定できました。
斯麻国以下の二十一カ国も比定できました。
 風俗の部分も、魏の使節が九州までしか行っていないことにより、
説明が付きます。
 歴史部分も、邪馬臺国から邪馬壹国への改名及び魏が倭国に対して
呉国への出兵を求めたことにより、説明がつきました。
 以上、簡略に邪馬台国=大和国説について説明しました。
古田説主張1
 『三国志』「魏志倭人伝」には邪馬臺国という国名は存在していない。
女王卑弥呼のいた国が「邪馬臺国」だ、とは一切書いておらず、
邪馬壹国と書いてある。
(古田武彦『「邪馬台国」はなかった』古代史コレクション①、
ミネルヴァ書房、第一章「それは「邪馬台国」ではなかった」)

古田説主張2
 『三国志』「魏志倭人伝」には「会稽東冶」とは書いておらず、
「会稽東治」と書いてある。
当該個所を検討すると、「会稽東治」の直ぐ前が、
夏后少康の子が会稽に封じられ、
その夏の感化が倭人に及んでおり、それが風習化して、
今も倭人の中に伝えられているのであろうと推定している部分だと理解できる。
 また、会稽東治を東冶に改めたのは、後漢書を書いた范曄である。
彼は魏の時代には会稽郡の中に「東冶」という土地があったという知識から、
「魏志倭人伝」の「東治」を「東冶」に改定した。
 このように理解すると、原文どおりの「東治」が正しい。
(『「邪馬台国」はなかった』第二章Ⅰ「禹の東治」)

古田説主張3
 『三国志』「魏志倭人伝」には「景初三年」とは書いておらず、
「景初二年」と書いてある。
歴史を検討すると、「景初二年」が正しい。
(『「邪馬台国」はなかった』第二章Ⅱ「戦中の使者」)

古田説主張4
 『三国志』「魏志倭人伝」には対海国」「一大国」と書いてあるのに、
後代に「対馬国」「一支国」へと改定されている。
この後代の改定には史料批判上の根拠が無く、
「対海国」「一大国」が正しい。
(『「邪馬台国」はなかった』第二章Ⅲ「海彼の国名」)

古田説主張5
 『混一彊理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)』という地図では、
倭国が范曄(はんよう)の主張に従って「会稽東冶」の東に描かれており、
陳寿の主張を基にしたものではない。
よって、『三国志』を書いた陳寿は倭国が帯方郡の東南にあるという正しい地理を認識していた。
 また、「魏志倭人伝」の「南」を「東」を意味するとみなすことはできない。
陳寿には「南」を「東」と書く癖などもないので、「南」は「東」の誤りでもない。
(『「邪馬台国」はなかった』第三章Ⅰ「目的地先行の「各個改定」」)

古田説主張6
 「陸行一月」は「陸行一日」を意味するものではない。
(『「邪馬台国」はなかった』第三章Ⅰ「目的地先行の「各個改定」」)

古田説主張7
 『三国志』内の里程基準は、すべて一定している。
それは前代(漢など)、後代(唐など) の里程基準とはいちじるしく異る。
しかし、いずれも、実測値としての基礎の上に立った、ほぼ正確な表現である。
(『「邪馬台国」はなかった』第三章Ⅱ「榎説への批判」)

古田説主張8
 魏においては貳にが嫌われているのに対して、壹は反対に二心なき忠誠心を示す。
邪馬壹国の「壹」は卑字ではない。
(『「邪馬台国」はなかった』第五章「「邪馬壹国」の意味するもの」)



 

邪馬台国は、
古田武彦氏の指摘したとおり、
国名が「邪馬壹国」の時代がありましたが、
それは、改名の結果でした。
大和国を支配した邪馬台国は、
三世紀初めから倭国の国々の宗主国でした。
狗奴国は九州南部の熊襲の国であり、
辺境で邪馬台国に対抗した時期もありましたが、
邪馬台国と対等ではありまません。
「倭の邪馬台国」は三国志等と記紀を解釈して、
邪馬台国と倭国の歴史を解明しました。
正当な評価を受ければ、
「倭の邪馬台国」によって、
「邪馬台国」論争は確実に終結するでしょう。


ユダヤ征服王朝説


ヤマト王権成立の事情を説明する学説に騎馬民族征服王朝説というものがあります。
朝鮮半島から筑紫に上陸した騎馬民族が倭国を征服してヤマト王権を打ち立てたとするものです。
新日本書紀では、騎馬民族ではなく、ユダヤ人が倭国を征服してヤマト王権を打ち立てたと考えます。
日ユ同祖論があります。
日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)が共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説です。
日本には確かにユダヤ文化の痕跡があります。
しかし、普通の国民の遺伝子にはユダヤの痕跡が見られません。
そこで、支配者である天皇氏がユダヤ人(古代イスラエル人)と共通の先祖を持つ兄弟だと考えるのです。
日本の皇室の先祖はユダヤ人ということになります。
そして、ユダヤ人達はユダヤ文化の核心を捨て去って証拠を湮滅するとともに、
ユダヤ人による倭国征服の歴史も隠して証拠を湮滅しました。
このユダヤ征服王朝説に立つと、
古代史の諸問題が解決でき、ひいては現在に至る歴史の意味も分かります。
古代史の諸問題解決の成果を新日本書紀で御覧下さい。

誇り高いユダヤ人がユダヤ文化の核心を捨てるはずがないと思う方もいらっしやるかもしれませんが、
その方の知っているユダヤ人は第二次大戦後に名誉回復されたユダヤ人であって、
その前の迫害を受けていたユダヤ人ではないと思われます。
また、ユダヤ人は頭の良い人達です。
倭国を征服したユダヤ人達は将来を見据えて、
聖書やヘブライ語等のユダヤ文化の核心を捨て去る決断をしたのです。
そのユダヤ人による倭国征服は三世紀末になされました。
ヘブライ語を話していたのは征服当初のユダヤ人とごく少数の倭人通訳だけでした。
征服当初のユダヤ人自体も倭人に比べると圧倒的に少数でした。
ユダヤ人は二三世代の中に全員が倭語と漢字を習得して、
ヘブライ語、ヘブライ文字の使用を止めました。
征服から720年に日本書紀が成立するまでの長い間、
ユダヤ人であることの証拠は破壊・湮滅され続けました。
真実の歴史を書いた資料は湮滅され、
必要なものだけが朝庭に集められました。
朝庭に集められた資料を利用して、記紀が編纂されました。
記紀の編纂が終わると、中央に集中した資料もすべて廃棄されました。
こうして、ヘブライ語使用の痕跡とユダヤ文化の核心はほぼ完全に日本から消滅しました。
日本には古代文字があったとする人が居るのはご存知かと思います。
あれは、ユダヤ語の使用を隠すために作られたものだと考えられます。


漢字の音読みについて


 魏志倭人伝の漢字を音読みする場合、日本の漢和辞典の呉音と漢音を使用すべきです。
漢音は古代中国北方の言語に由来し、呉音は古代中国南方の言語に由来します。
古代の日本においては、七世紀前に中国北方の漢音も伝わっていましたが、
弥生人が中国南方系だったので、呉音が優勢でした。
桓武天皇が延暦十一年(792年)閏十一月二十日に、漢音奨励の勅を出しているのはそのためです。
日本語は変化が少なく、呉音と漢音は古代日本の音を保存しており、
古代日本の音は、古代中国の音に由来しますから、
呉音、漢音は魏志倭人伝の解読にも使用できます。
「倭の邪馬台国」も呉音と漢音で音読みします。
ところで、「奴」の呉音はヌ、漢音はドです。
しかし、奴国はナコク、蘇奴国はソノコクと読めると考えます。
なぜなら、「奴」が「やっこ」、すなわち召使いという意味を持ちますので、
中国人が倭国を見下して、
「奴」(ヌ)と同じナ行の「ナ」や「ノ」の音にまで、
好んで「奴」の字を当てたと考えられるからです。



▲このページのトップへ戻る

「新日本書紀」サイトトップページへ戻る